194年15日:テト海岸の話-開放-

誰もいないテト海岸。
ポーラは日差しを全身に浴びながら、波打ち際まで1人、走った。
くっきりと分けられた、空と海の境界線。足元に寄せては返す、穏やかな波。海は日差しを受けてキラキラ光っている。
辺りに響くのは、波の音だけ。
(…こんなにきれいな場所でしたっけ?)
2人でやってきたそこは、一人で来る時とも、前にジョシュアと来た時とも、違った場所に思えた。
水面のまぶしさに目を細めつつ、はるか遠くを見ていると、背後から声をかけられた。
「何を見てるんだ?」
振り返ると、近付いてくるジャメルと目が合った。ジャメルはそのまま横に立つ。
ポーラは視線を海へと戻した。
「海を見ていたんです。
 同じ海でも、やっぱり季節によって全然見え方が違うんですよねぇ。
 少なくとも、寒い時期に見るよりもイノチに溢れている気がするのよ」
「この季節は、海がと言うより、
 海中に生き物が溢れているからな」
「シーラ・エルグの仕事中も、そういう気配を感じますか?
 例えば…寒い時より釣れやすいとか」
「…オレに仕事について聞くのか」
「…ごめんなさい。なかった事にしてください」
ポーラは発言を撤回した。確かにジャメルに聞く内容ではなかった。
彼はエルグに寄り付かないと聞いている。仕事で季節の変化を感じ取るという事は、ほとんどないだろう。
「ところで。
 今日は、どうした?」
突然そう聞かれて、体がびくりと反応する。
「…え?」
見上げる先には、いつもの、少しだけ不機嫌そうな表情の彼。
ポーラはもう知っている。それは決して不機嫌ではないという事を。
「今日はずいぶんおとなしいんだな」
「そうですか?」
「いや、気のせいならいい」
そう言うと、ジャメルはつい、と視線を逸らせた。
ポーラ自身もわかっている。今日は少しおかしい。
それは昨日、ジョシュアに指摘された事がずっと頭の中に残っているから。
できるだけ表に出さないようにしていたつもりだった。
でも。
「何で、わかるの…?」
声に動揺が混じる。
「普段のお前がどうなのかはわかってる。
 多少、様子が違うように思えただけだ」
逸らせた視線を戻しながら、簡単な事だといった調子で、ジャメルは答えた。
彼女自身は隠しきっているつもりだったけれど、そうではなかったようだ。
「やっぱり何かあるのか」
「…うん」
ポーラは少しだけ躊躇して、それから肯定した。軽くうつむく。
(…どうしよう)
朝からたくさんの人と話をしたのに、誰も自分の変化に気付かなかった。
でも、ほんの少し傍にいただけで、彼には当たり前のように気付かれた。
それは、彼自身がポーラの扉の内側に興味があるという事。扉を叩いているという事。
上辺だけの興味なら、きっと、他の人と同じように気付いてはくれなかっただろう。
昨日ジョシュアに言われた事が、頭の中を回る。
「そいつの事がちゃんと好きなんだよ」
多分、それは正しい。
(私はきっと、このひとが)
一緒にいると嬉しくて、落ち着かない。
認識した事で、ますます気持ちは強くなる。
でも。今のままではいけない気がしていた。
中途半端なままでは、進むも戻るもできない気がした。
進んでいいのかわからない。わからないのに戻れない。
今なら。聞けるかもしれない。聞かなきゃいけない。
ポーラは少しだけ勇気を出して、スカートをぎゅっと握り締める。
そして、顔を上げた。
「ジャメルさん」
「なんだ」
見上げれば、そこにはやはり、いつもどおりの彼。
「わ、私達、最初がちょっとアヤフヤで。
 それから今までも、ずっと中途半端で。
 最初からしっかりやってたわけじゃないから、
 何も言わずにいる事はできないと思うんです…」
最初に用意した勇気はすぐに効力を失った。くじけそうになる。
聞くのも、答えをもらうのも、怖い。
でも、止められない。
きっと、ここで止めた方が、もっと苦しい。もう、なかった事にはできない。
「だ、だから。
 どうしても、確かめておかなくちゃいけないの」
少しだけ震える声で。
ポーラは一番聞きたい事を口にした。

 

「…このまま私、恋をしても、いいんですか…?」

 

「お前、それはどういう意味…」
「もしも!」
何か言いかけたジャメルの言葉をさえぎって、言葉を続ける。
「もしも、ダメなら…前みたいに、友達に戻ります。
 きっと、まだ大丈夫。戻れると思う。
 こういう関係になってから、もう10日。
 そろそろ、どうするか考えないといけないと思うんです…」
普段とは違う彼女の勢いに気圧されたかのような表情で、ポーラを見下ろすジャメル。
その顔を見ている事もできなくなって、ポーラはまた、うつむいた。
「…すぐに答えなんて出るわけないのも、わかってるんです…。
 なんだかすごく、面倒な事聞いてるってのもわかってます。
 私だって、こんな事いきなり聞かれたら、きっと、困る。
 でも、今じゃなくていいから、聞かせて欲しいの。
 ここで終わりなのか、この先に行ってもいいのか、わかりません。
 私、どうしたらいいんですか…」
最後は、力なく、小さな声で。
それでも必死で、言葉を搾り出した。
ジャメルは、何も言わない。
(きっと困惑しているのだろう)
(もしかしたら、本当の意味で不機嫌そうな表情をしているのかもしれない)
そう思っても、ポーラはそれを確認する事ができなかった。
聞こえるのはただ、寄せては返す、波の音だけ。
「ご、ごめんなさい。
 なんか変な雰囲気にしてしまいました…」
沈黙に耐えかねて口を開いたのは、この状況を作り出したポーラの方だった。
少しだけ顔を上げる。でもジャメルの顔は見られない。
(私、今、相当酷い顔をしているんだろうな…)
困らせてしまった事に対する、後悔と。
それでも答えが知りたい、期待と。
もしかしたらこの関係が終わってしまう事になるのかもしれないと言う、不安。
ポーラ自身、頭の中がごちゃごちゃで、今日はこれ以上何かをできる気がしなかった。
「私から誘ったのに、こんな感じになっちゃって、ホントごめんなさい。
 残念ですけど…今日は、もう、帰るね」
最後にもう1度、軽く一礼して。
ポーラはジャメルから目を逸らし、海に背を向けて走り出した。

「ちょっと待て」
数歩も行かないうちに呼び止められ、同時に肩を掴まれた。
そのまま軽く引かれ、半ば強制的に向きを変えさせられる。
思わず見上げると、そこには、追いかけてきた彼と、普段よりもずっと色濃い、夏の空。
頭上から当たるまぶしい日差しで、彼の表情はよく読めない。
突然の体勢変化に耐えられずに、ポーラは引かれた方へと倒れこんだ。
「…ひゃ!」
「おっと!」
ジャメルの胸元にしがみつく形で、何とか倒れるのだけは回避できた。
彼女を支えるために、背中に軽く手が回された。
(…あれ? もしかして今…)
少しだけ冷静になって、彼女は今の自分の状況を考える。
呼び止められて、ジャメルの胸元に倒れこんで、背中に手が回ってる。
つまり、抱きついているって言うか、抱き寄せられてるって言うか…。
昨日、ジョシュアが『試しに』した事よりも、ずっと大変な状態…?
「え、あ、ちょ、ちょっと待ってまって!」
今までにない接近にポーラは一気にパニックになった。
後悔も期待も不安もない。それどころではない。
「あ、暴れるな!
 とりあえず自力で立ってからにしてくれ!」
暴れるポーラを半ば押さえつけながらの要求に、ポーラはぴたりと動きを止めた。
彼の言うとおり、今慌てて離れたら、バランスが崩れたまま砂浜に倒れるだけ。
「ごめんなさい…」
現状についてはできるだけ考えないようにして、しっかり体勢を立て直す。そして、ためらいがちに口を開いた。
「ありがとうございます。
 も、もう大丈夫です。立ててますよ」
「…」
「あの、えっと…なんで、離してくれないの…?」
ジャメルの両手は未だにポーラの背中に回されたまま。
ポーラが暴れなくなった事で、抑える力は軽くなったが、それでもポーラが離れる事を阻害している。
頭の上から、声がした。
「離したら、また逃げるだろ」
「だって」
「自分が言いたい事だけ言って、話を終わらせるな。
 頼むから、毎回逃げないでくれ」
「…ハイ」
『逃げない』事。
それは、ポーラ自身が自分に課している課題でもあった。
ポーラは逃げたつもりはないのだが、ジャメルからそう思われたのなら逃げたも同然だ。
さっきの話にまだ先があるなら。
請われたのだから、逃げずに、ここにいなくてはならない。
恐る恐る顔を上げる。
「それで…あの。
 もしかして、答えはもう出てる、って事ですか?」
「いや、そういう訳じゃない。
 ただ…」
そこでジャメルは言葉を切る。
少し時間をかけて言葉を探して、彼が発した言葉は、曖昧な物だった。
「お前の言った件に関して、していいか悪いかで言ったら。
 …少なくとも、『悪い』と言う気はない」
「でも」
「それとも、お前は現状を終わらせたいのか?」
逆に聞かれ、ポーラは慌てて首を横に振った。
「そ、そうじゃないです!
 でも…」
「そうじゃないなら、このまま行けばいい。
 大体、自分の感情の行き先なんて、相手に確認するような事じゃないだろう。
 何でこんな…」
「だって、ジャメルさんには、私だけじゃないもの」
…それが、昨日からずっとポーラが悩んでいた理由だった。
「どんな人か、ちょっと知ってる。
 その人が昨日、試合を見に来てたのも知ってる。
 多分、私よりずっと、一緒にいた期間が長いって事も、知ってる。
 …だから、心の中にその人がいるんだって、わかってる」
視線はまた、下に落ちる。
もしも、自分にも相手にも『お互い以外の誰か』がいないのなら、こんな事は考えない。
自分の気持ちに正直に、ただ、相手に向かって行くだけだ。
「私だって最初は違った。『おためし』だった。
 もしダメなら離れよう、って。そう思ってた。
 でも…ダメじゃなかった」
誰かが複数の異性とお付き合いをしていても平気だった。
自分がしなければいいと、ずっと思っていた。
でも、自分がその複数側に立った時。そこにどうしても付きまとう不安はあった。
「こういうのって、片方だけが大丈夫でもダメで。
 私がどんなに気にしていても、
 ジャメルさんにその気がないなら意味がない」
自分が本気になっても、相手の扉の向こうに別の人がいる。
彼の心は既に決まっていて、彼女が入り込む余地はない。
…もし、そうなら。
「心の扉が私に対して開く可能性がないなら、扉の先が絶対にないなら。
 早く離れた方がいいもの。
 だから…」
「今日、どうしてここに来たか、わかるか」
普段、あまり自分から口を開かないジャメルに、珍しくさえぎられた。
言葉を止め、言われた言葉の意味を考える。
「どうして…?
 え、暑いからじゃなくて? 水辺だと風が涼しいからじゃなくて…?」
王宮前大通りで交わしたやり取りを思い出しながら答える。
心にあった、もしかしたら…と言う予想は飲み込んだ。
ポーラの答えを聞き、ジャメルは心底呆れたように、大きなため息をついた。
「それは確か、お前が後付けで出した理由だろ。
 質問を変える。
 ここが、どういう時に来る場所だと言われているか、知ってるか」
「一応は。
 …え、でもそれって」
ポーラは思わず顔を上げた。
「ここに連れてきたって事は、
 少なくとも、『どうでもいい』とか、『ありえない』とは
 思っていないという事だ」
「あ…」
そんな気が全くないのなら、最初から別の場所に行けばいい。
今日は、どこに行くかを聞かれる事すらなかった。
もしかして、最初からここに来る事を決めていたのだろうか。
「決定権はお前にもある。
 嫌なら、そんな気になれないなら、拒否すればいい」
ここに来る時に考えた事が、あらためてポーラの頭に浮かぶ。
(もしそうなら。自分は、どうするのだろう)
直接的な表現はなくても、彼の扉の内側に入る事を許容してくれているのが、わかった。
きっと、ずっと、扉は開いていたのだ。ただポーラが認識していなかっただけで。
そして多分。彼がこちらの扉の内側にも入ろうとしているという事も、わかった。
…それなら、後は、こちらの扉を開くだけ。
自分も相手の扉の向こうに入るだけ。
上を見上げる。
いつもよりずっと近いけど、それでもとても遠い距離。
よろけないように掴まりつつ、おもいきり背伸びをして、そっと目を閉じる。
同時に、自分の中の扉を大きく開け放った。

 

「なんか…頭の中、バクハツしそうです…」
密着しているからなのか、それとも単に気温に当てられたのか。
足に力が入らずに、しがみついたままで、ポーラは小さくつぶやいた。
顔は、のぼせたように赤い。
うまく考える事ができなくてぼんやりしていると、頭上から声が聞こえてきた。
「…酷い事をしているのかもしれない」
不意に思いがけない事を言われ、一瞬にして思考力が戻ってきた。
「え?」
「こう言う時、当たり障りのない事を言っておけば
 その場は丸く収まるのはわかっている。
 だけどオレは、そういうのは苦手だ」
「うん…」
「だから先に言っておく。
 正直、迷っている」
ポーラはただ黙って、彼の言葉を聞いた。
「オレ自身については、まだわからない。
 もしかしたら、最終的にお前の事を選べないのかもしれない」
「…それは、仕方のない事ですよね」
「だけど、少なくとも今は…」
「ジャメルさん…ありがとうございます」
軽くさえぎるようにそっと口を出すと、ジャメルは驚いたように言葉を止めた。
「…なんで感謝されるんだ。
 結局オレは、何も答えてないようなものなんだ」
「でも、少なくとも私を引き止めてくれました」
胸に頬を当て、目を閉じて。『ありがとう』の意味を紡ぎだす。
「私が本当に聞きたかったのは、この扉の先が『森』だけなのかどうか、だけなんです。
 このまま一緒にいる事で、『絶対に森へ向かう事が決まっている』のなら、ここで終わる。
 『森へ向かうかもしれない』なら、今までどおりで…
 もしかしたら、その先にも進もう、と思ってたんです。
 道があるかどうかだけでも、知りたかったんです。
 …そして、ジャメルさんはそれに答えてくれた」
今までも、妖魔の森へと向かう人たちをポーラは何度も見てきた。
お互い納得しているのかもしれないけれど。森へ向かう2人も、それぞれの『相手』も、ポーラから見たら、本当の意味では幸せそうには見えなかった。
絶対に先がない、それがわかっているのに続ける事。
それは彼女には、不毛だとしか思えない。
「私の疑問は、聞けば、わかる事でした。
 もしかしたら、聞いてもはぐらかされるだけかもしれないですけど、
 何も聞かないで、単に期待だけして、後悔するのはイヤでした。
 たとえ扉の向こうの道が細くても、先があるならいい。
 …できるなら、先に進みたい。
 もちろん、ここから先に進んでも、先の事はわかりません。
 …いつか扉の外に出る事になって、泣く事になるかもしれないけど」
(泣きたくないな。泣かないといいな)
その言葉は、まだ、胸にしまっておいた。
自分の方を向いては欲しいけれど、それを決めるのは彼自身。
今は、そんな希望すらも伝えてはいけない気がした。
彼の判断に、『自分の希望』と言う形で影響を与えたくはなかった。
「普段は思いつきで色々行動するのに、
 こういう事はまず頭で考えようとするんだな」
昨日ジョシュアに言われた事を、そのままジャメルにも言われた。
「友人にも、同じ事言われました。
 …おかしい、ですか?」
「普段と違うから、戸惑った。
 ただ、おかしいかどうかはわからない。
 何がおかしくないのかなんて、オレにもわからない」
「困らせて、ごめんなさい」
「気にするな。
 理由さえわかれば、それでいい」
だいぶ落ち着いてきたように見えるポーラに、ジャメルはあらためて声をかけた。
「もう、逃げないか?」
「…正直、今も逃げたいです」
「何でだよ」
「や、やっぱり恥ずかしいし。
 …って言うか、何でジャメルさんは平気なのー?」
今まで頬を当てていた胸元に両手を置いて、ポーラはぐいと自分の体を引き離した。
見上げる顔は、頬は赤いまま、困ったような表情で、先ほどとあまり変わらない。
一瞬だけ合わさった視線は、ジャメルが顔をそらす事で離された。
「オレだって何も感じてないわけじゃない」
「え、そうなの?」
「そこまで無感動じゃない」
そういうジャメルの顔は、やはり遠くてよくわからない。
だけど。
ポーラからは少しだけ、彼の頬が赤くなっているように見えた。
それはあの日、雨上がりの古城前で見たのと同じ姿。
「…ジャメルさんも、逃げたい?」
そっと聞いてみる。
「いや、逃げたくはないな。
 ただ、こうする為にはそれなりに『勢い』が必要なだけで」
「勢い…」
自分にはできない事を、簡単にやってのけているんだと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
ただ単に自分よりも、少しだけ行動力があっただけ。
まだ、触れている事は恥ずかしくて、鼓動は収まらない。
それでもポーラはまた、彼の胸元に頬を寄せた。
「ジャメルさん…」
「何だ」
「あのね…大好きなのよ」
抱かれるというよりも支えられて。
寄り添うというよりもしがみついて。
初めて、そう口にした。
肯定も否定も返ってはこない。
ただ、支える腕に少しだけ力が篭った。
それだけで、今の彼女には十分だった。

 

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照れ隠しと言う名のコメント

今更な補足。
森=妖魔の森=不倫状態。
…まぁ、子なし死別の場合は再婚できるんで、一概に不倫デート=先がない、とは言いにくいのですが。

 

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